一ファンとしての立場 [01スタッフより]
staff 安藤内田樹さんの書籍が好きでよく読んでいます。新刊「街場の芸術論」を買う前にブログで序文が掲載されているのを知ったので、読んでみました。
http://blog.tatsuru.com/2021/05/03_1416.html
ここでは彼にとっての芸術について、それは小津安二郎であったり宮崎駿であったりビートルズであったりするようなのですが、「一ファン」という立ち位置で論じているそうです。この、「一ファン」という立ち位置で「こんないいものがありますよ」と他人に紹介するというスタンスが、なんだか自分の仕事にも重なり、強く共感しました。
例えば傾倒しているミュージシャンがいたとして、それを友達に「これ聴いてみてよ。すごくいいから」と紹介したくなる時って、ありますね。私もよくあります。
一ファンとして熱中しているものを他人と共有したいとき、当然相手をその気にさせなければならないけれど、かといって、強く推しすぎるあまり、相手に「そんなに言うなら仕方ない、聴いてみるか」と思われると逆効果になってしまう。それは、相手にとってその音楽との出会いが他人にコントロールされたもので、偶然の出会いでなくなってしまうから。心から好きになるためには、その対象に「偶然に出会った」というストーリーが必要である。彼はそう言っています。
私はいま仕事で住宅を扱っていて、自由設計のコーポラティブハウスや賃貸住宅を企画・コーディネートしています。ファンというのとはちょっと違うかもしれませんが、コーポラティブハウスについては建築を勉強していた大学時代から興味を持っていたので、「私はコーポラティブハウスのファンです」と言っても、あながち間違えではないとも思います。
こうした住まいづくりに関わるとき、自分の頭の中に一貫してあるのは、一人でも多くの方に二つのことを知ってほしいという気持ち。一つは「自由設計の住まいづくりは楽しい!」ということ。もう一つは「自由設計でつくった家に住むことは快適だ!」ということです。その感覚をより多くの方に味わってほしいから、これまで発信してきたのだと感じます。
そしてその気持ちは、「これ、貸してやるから聴いてみろよ」と新譜のレコードを友達に貸そうとする高校生のときの自分と一緒なのかもしれません(私が高校生の頃はCDでしたね)。だから、あまり強くゴリ押ししてしまうと友達に「うるさいなぁ、そんなに言われたら聴くしかないじゃないか」と疎まれてしまい、友達にとっての良い出会いになりえない。私が仕事で自由設計の住まいの良さを紹介するのも、もしかしたらその「ちょっとしたさじ加減」が大切なんじゃないかと、ふと気づきました。
熱意は大事ですし、仕事である以上強く推すべきだという気持ちもありますが、一方で相手から、「偶然に出会った」というストーリーを奪ってはならないのだということも意識したいですね。